社会人の私が学生用ローファーを履き倒す理由
学生用ローファーは社会人にも便利
日本の学生用ローファー、実用性最強説
日本の学生用ローファーはコスパの代名詞のような製品だ。こんなものを買えるのは日本人に与えられた奇跡的な特権だ。これを履き倒さないなんて、せっかく日本に生まれたのにもったいない。
学生用に限らず、ペニーローファー(コインローファー)はそもそも絶妙に便利な革靴だ。脱ぎ履きが楽で、歩いていて紐がほどける心配がない。ある程度きちんとしていて、だからといって堅過ぎず、いくらかリラックスした雰囲気がある。真面目なイメージもあれば、かつてマイケル・ジャクソンやマイルズ・デイヴィスをはじめミュージシャン達にも愛用された小粋なイメージもある。仕事の日にビジネスの服装に合わせても、休みの日にカジュアルな服装に合わせても、よく馴染む。これほど幅広くコーディネートしやすい靴というのは珍しく、代わりに同じぐらい履き回しの効く靴を探そうとしても、そう見つからない。
私はかつて外国に暫く駐在していた。周辺の国々にもよく出掛けた。ローファーには日本でこそ学生靴のステレオタイプがあるものの、日本以外ではそうでもない。大人がふつうに履いている。革靴のデザインの定番のひとつなので、大抵の靴屋さんやデパートに行くと一種類やニ種類は置いてある。ただし日本の学生用ローファーみたいな、他の革靴と比べて安価で丈夫な商品が置いてあるという事はもちろんなく、価格帯も品揃えも他の種類の革靴と一緒だ。学生用という位置づけで破格なコスパのペニーローファーを大量生産し、さらにそれをどこの靴屋さんでも売っているという日本は、世界的に珍しい国だ。もしかすると世界唯一かも知れない。
ローファーには、世界的に品質が認められている良品も多い。G.H.Bass、クロケット&ジョーンズ、オールデンなどの老舗ブランドや、ロックポート、フィットフロップ、コール・ハーン等の高機能なブランドの製品は世界中で人気があり、あちこちで買える。ここ日本でも買える。私が人生で最初に買ったローファーは学生用ではなくG.H.Bassのウィージュンだった。それらの製品も魅力は多いが、ここで話題にしているのはそれらではなく、日本のメーカーの製品だ。それも国内だけで売っており、それでいて日本の靴屋さんや大型スーパーではどこでも売っているような、庶民的で安価な製品だ。
近年の日本の物価は世界的に見て相当安い。あらゆる消費財が、高品質に釣り合わず不自然なほど割安だ。革靴も例外ではない。日本の革靴には外国の製品には無い様なたくさんの機能性があって、そのうえで安い。その中でさらに他の革靴よりもさらに一段コスパが高いのが学生用ローファーだ。そこまでのコスパの高さと勝負できる革靴など、世界中探してもそう見つからない。せっかく日本に住んでいるのならば、この国の学生用ローファーの驚異的なコスパを余すところなく使い倒さない手は無いというのが最近の私の考えだ。
学生用ローファー、なぜコスパが高いのか
学生用という特殊な市場が、学生用ローファーのコスパを特別に高めているにちがいない。
まず、メーカーの価格設定の方針だ。ユーザーの志向に特徴がある。学生は毎日たくさん歩くから、買い替えのサイクルは短くなりがちだ。一方で子育て世代の家計は、一般的にゆとりが無い。あるいは学生本人が自分自身の小遣いで買う場合もある。アパレル分野では価格がいくらか高いことが品質への信頼感やステータスにもつながるため、安価すぎるプライシングは敬遠され気味な場合もあるものの、学生用ローファーでは安さに振り切ったほうがユーザーから支持されるのだろう。あるいは学校の購買部などからメーカーにそういう要望が行くのかも知れない。こうした事情で低価格に振り切ったプライシングの製品が多いと考えられる。
もうひとつ考えられるのは、単一のモデルが大量にまとまって売れるというサプライチェーンの特殊さだ。おそらく生産ロットだって他の革靴に比べて大きくできるだろうから、規模の経済によるローコスト化現象が考えられる。流通コストに関しても同様だ。さらに、デザインに関してもずっと変わらないので、デザインや製品設計のコストも希釈される。このように得ュな生産効率の高さがあるため他の靴より低価格にしても採算が取れるのだろう。こうした様々な条件が積み重なり、学生用ローファーのコスパの高さが実現していると考えられる。
学生用ローファーが持つ日常の機能性
私がまず注目したのは、履き潰したあとの補充のしやすさだ。学生用ローファーならば、今まで履いてきたものとよく似た新品をいつでもどこでも安く買って補充できる。靴と洋服とをコーディネートするうえで便利だ。「今回買った靴はイマイチ手持ちのワードローブと合っていない」という失敗をする事がない。どんな靴を買おうかと、迷ったり悩んだりする時間も要らない。
機能性に関しても申し分ない。学生のニーズに合わせ、耐久性や履き心地など、実用面のニーズはひと通り考慮されている。さらに抗菌防臭加工やウォッシャブルなどの機能が盛り込まれた製品も増えている。
通勤向けローファーよりも王道なデザイン
日本人の服装、実はかなりガラパゴス
ここ日本では、マナーの専門家を名乗る人や、アパレルの販売に携わる人の多くが、ビジネスの場面でローファーを履いてはダメ、スーツにローファーはおかしい、と言っている。内羽根のストレートチップかプレーントゥーを履けという。
しかし本当の実社会でそんなこだわりが必要なのはごく一部の限られた人だけだ。大多数のビジネスパーソンのリアルな仕事場は、スーツにローファーを合わせたりするぐらいの事で不都合が起こるような場所ではない。
まして海外に行けば、日常的にそんな事までこだわるのは日本人ぐらいなもので、他は誰も気にしていない。私は2年間ほど海外の大都市に駐在した。周辺の国々にも頻繁に出かけて過ごした。コンサルタントをしていて、世界各国の有名な大企業の、スーツあるいはジャケットにスラックスという出で立ちのビジネスパーソン達と毎日会っていた。そこではスリッポンの靴を履いている人は多かったし、内羽根の紐靴なんて履いている人はむしろ少数派だった。現地で大手チェーンのシューズストアに行くと、内羽根の紐靴を日本ほどたくさん売っていない。日常的なビジネスマナーとして、身に着ている衣服の画一性をそこまで強要したりはしない。そのかわり話し方の態度だとか立ち姿勢なんかを日本人よりももっと大切にしている。薄々そんな気はしていたが、日本人だけ、こだわりがちょっと変な方向に向いているのだ。
しばらくぶりに日本に帰国し、働く人々の服装を見わたしてみると、確かに日本はガラパゴスだ。人々の服装でそこが日本だと分かる。国民全体的にはアパレルに関する知識がかなりあるのだろう。特にサラリーマンは、義務教育のようにアパレルの知識を身に付けている。そのせっかくの知識を楽しむために使わず、着てはいけない服を増やすためにばかり使う。ただ単に着る服の選択肢が狭まっただけで、お洒落さにも、感じの良さにも繋がっていない。カラー、素材感、季節感などで全身的なコーディネートをする事には極端なほど無頓着で、むしろ、野暮ったさや見栄えの悪さが気になる。一方では会社で怒られない程度の自己主張はしたくて「はずしアイテム」などと言ってはハイテクなスポーツやアウトドアのアイテムをどこかに取り入れようとする。自己主張のつもりだったのに、発想のカブり切ったそっくりなサラリーマン達が、山手線や東京メトロには溢れかえっている。その様子を見ると、日本人が年齢の割に幼稚に見えるというのも何となく納得だ。私はいちど海外で暮らしたおかげで「知識はギンギンなのに、感性が死に切っている」という日本人のバランスの悪さに気づいた。そして、そうならない様に気をつける様になった。
ビジネスはフォーマルではない
とはいえ、ローファーがフォーマルのときに履く靴ではないのは確かだ。それはきっと世界共通だ。私は海外に駐在している間、現地の大富豪の御曹司の結婚式に招待してもらった。その時に親族や重要な来賓は内羽根の紐靴を履いていた。フォーマルには内羽根の紐靴、というのは世界共通なのだと認識した。
日本のマナー専門家たちがビジネスでローファーを履くのがダメだと言うときには「ローファーがビジネスでダメなのは、フォーマル向けではないから」という理屈を言う。
しかしそもそも、ビジネスとカジュアルを区別するように、ビジネスとフォーマルの間にもまた区別があるのがグローバルなビジネスマンの常識の筈だ。私は海外暮らしでそれも感じた。ビジネスという言葉には、礼節や信頼感という要素ももちろんあるが、質素、簡潔、迅速、機能重視という要素もあり、そして根本的に日常的というニュアンスだ。採算性への意識があるのだから当然だ。
一方のフォーマルとは、非日常の側だ。ビジネスよりも明確に格上で、上質である、形式を重んじる、手間や時間を惜しまない、省略すると失礼、特別な日、という趣がある。ビジネスとフォーマルとではコストのかけ方も時間のかけ方も明確に違う。
ここ日本にはちょうど、ハレとケという伝統的な概念がある。ビジネスはケで、フォーマルはハレだとすればまさにしっくりくる。しかし日本人のマナー専門家達は、このせっかくのハレとケの概念をビジネスとフォーマルの関係性には当てはめず、両者をゴッチャにしている。ビジネスの服装といえばただドレスアップさえすれば礼儀正しくてより良い服装と考えてしまう日本人の事を、合理性に欠けていると思いながら見ている外国人は結構居ると思う。
なぜ日本がガラパゴス化したのか
では、日常のビジネスでは内羽根のプレーントゥーかストレートチップを合わせる堅苦しいコーディネートはやめた方が良いのかと言うと、単純にそうでもない。一部にはそれが好ましい人も居る。
例えば代議士や外交官、あるいは高級ホテルや百貨店の接客係など、一部の職業の人にはそういうフォーマル寄りな着こなしこそ適切だろう。とはいえ、そういう人は全体から見れば少数派だ。昨日今日スーツを着始めた新社会人たちや、その辺のファッション雑誌の読者を片っ端から捕まえて、社会人ならば誰もが知っておくべき着こなしの基本だというのはさすがに違う。TPOというものがある。日本ではマナーの専門家もそうだが、ファッションやライフスタイル雑誌の編集者や、スーツや革靴を扱うアパレル販売など、ファッション産業の関係者の多くもまた、TPOという発想が弱く、ビジネスマンの服装を十把一絡げにして日本特有のガラパゴスなルールに執着してしまう。企業の人事部もその情報を鵜呑みにする。
ビジネススーツにはフォーマルな内羽根の紐靴を合わせるべきだとの知識が日本人の間に広まるようになった発端はおそらく、ファッション雑誌全盛の時代に、ライターからの「え、あなた、こんな事も知らないなんて、洋服に詳しくないのでは?」的な、ニッチなトリビアによる煽りに、アパレルの知識に飢えた読者達がまんまとマニア心に火を点けられて乗っかってしまった事によるものか何かで、流行のひとつみたいなものだろう。親や祖父母たちから代々受け継がれてきた伝統という訳ではない。その証拠に、いくらか上の世代の日本人は、ビジネスでもスリッポンをふつうに履いている。それぐらい許容する感覚のほうがむしろグローバルスタンダードに近かったのに、急に流行った情報が定着してしまい、日本の服装文化のガラパゴス現象のひとつになってしまったのだ。
日本の現役サラリーマンのマスの世代はちょうどそのガラパゴスの中で育ってきた。その多くは日本の中でずっと過ごし、日本人としか接する事がなく、日本語のメディアにしか触れない。日本の外には世界があるという事すらめったに思い出す事も無く、日本がこの世の全てという感覚で生きている。世界の各地に自分で出かけて情報収集をする事もない。身近な同業者から聞きかじった情報だけで真実を知った気になってしまい、ウラなど取らない。流行に乗らなければ落ち着かず、近所の同世代たちと自分とが似ている事で安心感を得て満足している。そうなると情報の新陳代謝は進みにくい。そういう環境がガラパゴス現象を保護し続けているのだろう。
低収入で自意識過剰、そんな今の日本国民
今の日本の国民の平均年収が先進国の中で目立って低い事は世界中に知られている。G7ではほぼ不動のビリッケツだ。その日本の平均的なサラリーマンは、地球レベルの安月給を手にして、裕福な英国紳士の身だしなみを真似するという珍習慣を持っている。間違った方向の努力を続ける事をやめられず、虚栄心や自意識過剰を捨てる事ができない状態だという見方をされても仕方がない。
スーツに内羽根の紐靴を合わせているかどうかのチェックに没頭しているヒマがあったら、むしろそっちを問題視した方がいい。外国の人々が面と向かって指摘してくれればまだマシだが、陰でイジられているかも知れない。よその国の人を見たとき、服装の細かい着こなしがちょっと自分たちと違うとしても、さほど違和感など感じないものだ。しかし大した存在でもないのに見栄を張る者や、外見ばかりの上品さを装う者は、アパレルの知識があろうとなかろうと気づくものだし、嘲笑の対象になる。そういう内面的なダサさを検知する人間の本能的なセンサーは、万国共通で世界中のあるゆる人種が生まれつき持っていて、その普及率の高さはアパレルの知識などとは比較にならないものだ。
さらに、日本の平均的なサラリーマンよりもっと高収入な世界のビジネスマン達は、日本人ほど表面的な身だしなみに執着していない。その事も日本人の奇妙さを一層際立たせてしまう。
とはいえ、英国流の格調高い身だしなみにあこがれ、それを身につけようとする事自体が悪いというつもりはない。バランスや優先順位があるという事だ。裕福でないばかりか、海外から来た観光客に英語で話しかけられただけでパニックになる者に、そんな身だしなみがふさわしいのか。身だしなみなどせいぜい失礼のない程度に手早く整えておき、それよりも先にビジネスレベルの英会話ができる様にしたり、英文の契約書が読める様にしたり、英語で自分の商品やサービスの良さを説明する資料を書けるようにしたり、そういう技能を身に着けた方が、世界各国の人からも、本場の英国人からも、きっと評価されるだろう。
そんな技能を身に着けようともせず、狭い日本の中で自分より物を知らなそうな邦人の新社会人を捕まえては上流の英国紳士の身だしなみをコピーする事が大切なビジネスマナーの基本だと講釈をたれて、まだ自分の方が物知りで上の立場だと安心している。そんな日本人を見て、海外の人々は、一緒にビジネスをしようと声を掛ける気にはならない。そういう日本人はいつまで経っても本物の海外とは接点が持てず、いびつでヘンテコな海外への憧れを抱いたまま歳を取り続け、そのうち狭いテリトリーの内側の世界しか知らないまま人生を終える。
それが大半の日本人の実情だと思うが、そんな人生がイヤな人は、そういう生き方を助長して回るような日本のマナー専門家にもアパレルの販売員にも踊らされず、地に足を付けて自分自身の目と感覚とで世界を観察した方が良いだろう。
ローファーと仕事着とのコーディネート性
これまでローファーを持ち上げるような事を散々言ってきたが、例えば細部までビスポーク通りのこだわりのスーツスタイルでバリッとキメたいときに、足元がローファーだったらバランスが悪いので流石にやめた方がいいと思う。もちろんそれはファッションの話であってビジネスマナーの話ではない。
私の通勤時の服装は、大体いつもジャケットにスラックスあるいはチノパンという服装だ。ネクタイをする決まりは無いが、私は締めている。ごくたまにスーツを着る。いつも何となく全体的にアイビー、プレッピー、アメトラと呼ばれるような、米国調の服装だ。少し離れて鏡で全身を見ると、学生用ローファーはそういう服装に対しておかしいどころか、むしろコーディネートとして合っていると思う。それはそうだ。1950年代からこっち、米国発祥で世界の多くの人々に広く普及したコーディネートなのだから、意識して見てはいなくても、ハリウッド映画やアメリカのドラマを始め、様々なメディアで見慣れている人が多いだろう。
価格の相場は
5000円-6000円ぐらいのものだと、甲材が合成皮革でなく人工皮革だったり、クッション性やグリップ性がより高いソールだったりして、ワンランク上の履き心地のものが多い。本革のものは最近は価格が上昇し、1万円近い。それでも、革靴全体の相場から見ると、手頃なほうだ。
私はこれらのうちどれを買う事もある。履いているものが傷んできて、買い替える必要が生じればその時に、すぐ手に入るものの中からたまたまセール品になっていたりしてコスパの高そうなものを選んで買う。同じ学生用ローファーでありながら、そこにある色々な違いを楽しんでいる部分もある。
最近は少子化の影響なのか、製品の種類が減って行く傾向にあるのを感じる。特にメンズのブラウンの製品は少なくなってしまっている。それでも、手に入りにくいほどではない。少し探せば手軽に手に入る。価格帯別に見てみよう。
\3,000~
\5,000~

今これを履いている。老舗メーカー、アサヒの製品。軽さ・屈曲性・グリップに優れている。トゥの形状が微妙にセミスクエア寄り。テイジンのコードレという人工皮革をアッパーに使用しており、パテントレザー寄りのつややかさがあって、学生用ローファーだと見破られにくい。カラーは黒のみ。
[ハルタ] ローファー トラディショナル 3E 合皮 メンズ 6550

今これの「ジャマイカ」というブラウン系のものを履いている。履き口が広く、甲の部分を足首近くまで作らずに、つま先寄りに少し短くしてある、ローファーらしい軽快さがよく出たデザインで見た目のカッコよさはピカイチ。靴底はちょっとだけ滑りやすく、多少コツコツという音が出る。